昭和57年1月5日 朝の御理解
x 御理解第2節
「先の世まで持って行かれ子孫までも残るものは神徳ぢや神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来るみてると云う事がない」
信心のお徳と言うものは、丁度銀行に預金をしておるようなもんだと思う。放っておいても一人で利子がついていくようなもの。反対に銀行からお金を借りておればその利払いをしなければ利害が重なって段々借金は大きくなっていくばかり。
一人でに物が出来るようなものとか井戸は清水になるまでとか言ったような御教えがありますが、やはりお互い天地に借りておるところの借りのようなもの。いわゆる借金のようなものが払われる。そうして元利とも払うてしもうた、そこから貯まっただけは預金になると言う事になる。
あれはもういつでしたか、頂いた御理解にお互い、めぐりの為に難儀をするが、まあめぐりを一つの天地よりの借金だとすると、例えば一万円なら一万円の借金を致しております。そこでめぐりのお取り払いを頂く事によって借金が払われていく。難儀の実体と言うものが分かる。やれ痛や今霊験をと言う様な心にも段々なってくる。 借金が減っていってる事を思うたら有難い。本当に例えば一万円の借金を持っておる、十万円の借金を持っておる、百万も千万ものいうならば借金を持っておる。言うならばめぐりの相違と言うかね。それぞれあります。けれどもここで有難い事はめぐりが大きければ大きいほど、おかげも大きいと仰せられると言うのは、十万円の借金を持っておるより百万の借金を持っておると言う事ね。
だから借金が多いと言う事は苦しい事のようにありますけれども借金払が出けた時には、もう百万の徳を受けておると神様は教えて下さった事があるんです。ですからいかにもこう天地に対する借金払のように思うておりますけれども、そのめぐりのお取り払いが頂けば百万なら百万の借金払いが出けた時には、もう百万の徳としてまあ言うならば百万を持てる力をね、下さってある時である。
そこから言うならばまあ限りがない、いわゆる、みてると言う事がないと仰せられる御神徳。それはそれにまた利が利を生んでいくような働きが起こってくるもののように思います。ですからお互いそのいわゆる井戸は清水になるまでとおかげを頂き頂きではありますけれども、様々なこれが自分の家のめぐりであろうかと思われるようなめぐりに気が付いて、めぐりの自覚に立ってそのめぐりのお取り払いが頂けてくるように、本当に実感でけるようになった時。 はじめて、「やれ痛や今霊験を」と言う心が頂けるんぢゃないかと思うです。苦しい苦しい事が大きければ大きいだけ、それだけのお取り払いを頂いておるんですから、そこに御礼が申しあげれるような心が、だからなかなか一変では出来ませんですねえ。 だからそれをカバ-すると言うかそれを頂けれるものは何かと言うと有難いと言う心なんですね。有難いと言う時にはもう寒くても寒さを感じんほどしの暑くても暑さを感じんほどしの喜びと言うものが、いわゆる有難いと言うものになってまいりますから、難儀を難儀と感じんどころか、それに対して御礼が言える。そう言うね、私はそう言う心の頂けれる為に修行するんだと思うですよ。
おかげを頂く為ではなくてね。お互いがやはりあの限りなく有難いおかげを頂きたいね。その為にはどうしてもやはりなら大きなおかげの受け物を作らんならん。だからおかげの受け物を作ると言う事がです。結局私共がまあ合楽的に言うならば神愛を本当に悟らしてもらい、分からしてもらい神愛有難し、または神様の願いが私の上に成就しておるんだと分かると、神願有難しと言う事に神願が私の上に成就していっておる事にですから、有難いと御礼が言えれるね。そう言う有難いと言うものがこう頂けれる手立てが合楽では説かれてると思うんですよね。
先だってから、昨日でしたかね。お話申し上げたのは、石田先生達夫婦の事をまあ皆さんもご承知のようにもう本当に朝の御祈念お参りが、いはば有難い。本当に知らない、信心は知らない時代、信心が分かり出して来た現在、本当に有難いね。
しかも段々分かってくる事は、この有難いものこそが人間の幸福であると同時にここにありますようにね。先の世までも持って行かれるものは、これなんだとね。行く先はそれこそ地獄の果てか知らねども喜びだけは持って行きたいと言ったふうな、いつか御理解頂いた事がありますがね。
この喜びだけは持っていけれるんだとね。例えばならこの世で地獄のような思いをする時であっても、その中に喜べれる信心生活と言うものが頂けて来るようになる。それが嬉しうして有難うしてこたえんと言う事になってくる。石田先生達夫婦が今そんな所を通っておられるように思うんです。
ですからこの有難い心の状態と言うものが、これが子にも孫にも伝わって行ったら、どんなに有難い事だろうかと思われるから、あのまあ子供達にもそれを話される。今度のお正月でもまあそれこそ石田家一家でお参りしようと思うておられたところが、もう本当に自分の心を突くように刺すような思いをなさったであろうと思われる。
お参りしてくれるはずの子供達が成田山の方にどん参とったとこう言うわけなんです。そこで先生の心の中には穏やかでないものが生まれた。私は思うのにね。そりゃ親が子を思う切々心からでしょうけども、やっぱり人情である。いやそう言う時にです。結局その和すれば乱れる事はなしと言う様にですね。それを言うならば平気で受けれれる。有難く受けれれる。
自分でさえようやく今分かったんだから、もう必ず神様がいつかはこの親の祈り願いは聞いて下さらんはずはない、聞いて下さる。反対に昨日もお話しした事でしたけども、例えばタライの水を向うへ押すとこちらへ返ってくるけれどもね、こちらへ引くと水は逃げていくような道理のもんぢゃないでしょうかねと言うて。したら昨日実は、昨日の言葉に昨日子供達が皆ここにお参りをしてきた模様ですとこう言うのです。
で私がお届帳をくってみたんです。したら御子息やらもう外へ行っておられる方達までみんな一緒に名前がお届帳に出ているんです。参っておられるわけですね。ですからその心の中に神様の有難い有難いと言うておるから、どの位有難いかと、言うなら金額で言うならば千円有難いか一万円有難いかね。確かに嘘ではない。
千円なら千円の有難さだけは、もう本当に素晴らしい喜びをもっておられるけどもね。神様がめぐりのお取り払いでもかかって下さろう。いやもっと大きなおかげの受け物を作らして下さろうとする働きが起こっておるのですからね。そこを有難く受けて行く事によって、今まで千円の喜びは言うなら一万円の喜びに増えていく、おかげの場と言うのが広くなってくる。大きくなってくるね。
いかに神様がまあ言うならばめぐりのお取り払いをして下さったのか、又はお試しをして下さったのか、まあ両方どちらにでも言えるんでしょうけれども。結局、和賀心の和と言うのは、どんな場合であっても壊れない心を目指すのです。不壊のものでなからなきゃならんのです。
ですからいよいよ言うならば神願とか神愛とか神の願いとか神の愛とか言ったようなものを本当にこう分からせて頂けれる信心ね。それが私はお徳を受けていく受け物だと思うのですね。
昨日の朝の御理解のように合楽で頂くみ教えと言うものは、それこそ「徳のしずく」だと言われます。そのしずくが溜まり溜まってダイヤモンドのように光り、そして輝くようになる。その光り輝くようになると言う事が私は御神徳だと思う。
その御神徳を私共は頂いてあの世にも持っていけ、この世にも残しておけれる、しかもその御神徳と言うものはね。限りなく言うならば増えていくもの。利が利を生んで行くように増えていくものね。けれどもそれをいかにそれであっても銀行の預金と同じ事ですから放っておいても増えるんですけども、それを今だ反対の事になったら、言うならばそれこそ石垣の石を一つ壊したらあとはザラザラ壊れていくようにね。そのお徳でもね。
それを壊していくような事になれば、言うなら又預金はなくなってしもうて反対に借金をしていかねばならないような事にもなりかねないと思うんです。これは私もよく分かりませんけどもね。 まあ皆さんが皆さんと言うか私共先輩とか先覚と言う方達が、本当に御神徳を受けられて大変な力を受けられた。所がそれがその利が利を産んでいくように増えていかなければならんのに減っていっておると言うのは、こりゃもういよいよ利だけ位ならよかけども元金にまで手をかけていくような事になってくると折角のお徳も壊れてしまう。
そこで言うならばいよいよ信心のまあ根本的な所と言うか、いわゆる有難いと言うその心の状態と言うものが、まあ例えば腹の立つような問題であっても、心の乱れるような事があっても痛い痒い思いをするような事があってもです。その事を神愛として分からして頂くところまでは、言うなら本当な事を本当と分かっておく所までは頂いておかなきゃならんと言う事になります。
信心すれば誰でもその御神徳が受けられると言われる。だが信心をしておると言う事が只おかげを頂くと言う事だけが有難くて、それと反対の事は有難くないような信心ではお徳は受けられない。言うならば神愛と悟るね。又は神願を悟らしてもろうて、私にかけられる神様の願いと言ったようなものが分かってくる時に、その願いに応えれれる信心が生まれてくるね。
そこから期せずして不思議に自分の心の中に喜びが頂けれる。その喜びと言うものは、言うならばね。段々育っていかなきゃならん。その大きくさせて下さろうとする働きが、なら有難い有難いと思うておるのにも少し有難くならせて下さろうとする働きが、なら石田先生の場合をすると、お子さんが親の心の反対な事を只参らんと言うだけならよかばってん、そう言うものはもう信心でもないと思う様な所へ反対な方へ行っとる。
だから穏やかでないね。けどもそこをよくこう綿密に調べて見ると、それは神愛であり神願であり。石田先生御夫婦にもっと大きな有難い受け物を作らせて下さろうとする働き以外にはないと悟らせて頂く。そう言う信心が私は頂かれていき、いよいよ育っていき、それが残しておけれるものだ又あの世にも持って行けるものは、そう言う信心だと言うふうに思うんです。「どうぞ」